女王 イリス
遥か昔、まだ人々が自然と深く寄り添い、星や風の動きに耳を澄ませて暮らしていた頃――
緑豊かな谷間に、ひっそりと佇む小さな王国がありました。谷を囲む山々は、春になると淡い桃色の花で彩られ、夏には濃く茂った緑が生命の息吹を放ち、秋には黄金の麦畑が風に波打ち、冬には静かに白い雪が大地を包みました。そこは季節ごとに表情を変える、まるで一枚の絵画のような土地でした。
王国の中央には、透き通るような川が流れていました。その水は山の雪解けから生まれ、清らかさと甘みをたたえ、民の生活と作物を潤していました。川辺には市場が立ち並び、香ばしい焼きたてのパンの香りや、熟した果物の甘い香りが風に乗って漂っていました。子どもたちの笑い声が響き渡り、人々は互いに顔を知り、挨拶を交わす――そんな、穏やかで温かい国だったのです。
その王国には、一人の女王が君臨していました。名はイリス。
彼女は若き日に王位を継ぎ、政治の知恵と民への深い思いやりで国を治めてきました。王宮の白い石壁の上から谷を見下ろすその姿は、まるでこの地の守護者のようであり、その微笑みは厳しい冬を越える陽だまりのように人々の心を温めました。
けれど、女王が人々から最も愛された理由は、ただ賢さや慈悲深さだけではありません。
時を経ても変わらぬその美しさ――それこそが、民の間で語り草となっていたのです。年を重ねてもなお、肌は透明感を帯び、瞳は澄んだ湖のように輝き、歩くたびに柔らかな光がまとわりつくかのように見えました。
村の娘たちは密かにその秘訣を知りたいと願い、若者たちは彼女を一目見ようと城下町に足を運びました。
「なぜ女王は、あんなにも若々しく、いつまでも輝いているのだろう?」
それは、王国の七不思議の一つとも言われる謎でした。
民は様々に噂しました。
「きっと王宮の奥には魔法使いがいるのだ」
「いや、女王は妖精の血を引いているのだろう」
「いやいや、月の光を毎晩浴びているに違いない」
真実を知る者は、ただ一握りの限られた者だけ。
そして女王自身も、その秘密について多くを語ることはありませんでした。
しかし――その美の源が、王宮の奥深く、人の目に触れることのない“秘密の場所”に隠されていることを知る者は、ごくわずかに存在していたのです。
旅の賢者
女王イリスがまだ若く、王位を継いで間もない頃のこと。
王国は平和であったものの、隣国との交易や新たな農地の開拓など、日々の政務に追われる日々が続いていました。若い女王は責任感と理想に燃えてはいましたが、時にその重さに押し潰されそうになることもありました。心身は疲れ、食欲も細くなり、鏡に映る自分の顔に、かすかな疲労の影を見つけるようになっていたのです。
そんなある年の初夏、王宮を訪れた一人の旅の賢者がいました。
背は高く、白い髭をたくわえ、灰色の外套には長い旅路の埃が積もっていました。その瞳は年齢を超えて澄み切っており、まるで人の心の奥を覗き込むかのようでした。
賢者は謁見の間でひざまずき、女王にこう告げました。
「美しさとは、肌に塗るものではなく、心と体の内側から育てるもの。
その力を秘めた葉が、この世には存在します。虹の光を宿す野菜の中に――」
女王はその言葉に興味を引かれ、詳しく聞き出しました。
賢者の語る伝承によれば、七色の茎を持ち、深く濃い緑の葉を広げる特別な植物があり、それを日々食すことで、体の内から澄んだ力が湧き出すというのです。
その植物は“虹の葉”と呼ばれ、古くは海を越えた南方の島々や、霧深い谷の農夫たちの間で大切に育てられてきたといいます。けれども、育てるには土地と気候、そして水の巡りが完璧に揃わねばならず、多くの者が挑み、そして失敗してきた――そう賢者は静かに語りました。
「女王よ、あなたの治めるこの谷には、その条件がそろっています。
この地の土は豊かで、水は澄み、四季がはっきりと巡る。
もし“虹の葉”を根付かせることができれば、あなたは健康と美しさを長く保ち、民を照らす光となるでしょう」
その言葉は、若き女王の胸に深く響きました。
彼女は単に美しさを求めていたわけではありません。
国を支える者として、長く健やかでいなければならない――そのためにこそ、この“虹の葉”が必要だと感じたのです。
こうして女王イリスは、賢者から種を譲り受けました。
それは小さな布袋に入った、ほんの数粒の種子。けれどもそのひと粒ひと粒は、太陽の光を受けたかのように温かな輝きを放っていました。
賢者は最後にこう告げて旅立ちました。
「この葉は、あなたの手と心で育てなさい。
他の誰かに任せてはなりません。
真の美しさは、愛情と時間を注がれたものにのみ宿るのです」
こうして王宮の奥、誰も立ち入ることのない庭に、ひっそりと“秘密の菜園”が作られることになったのです。
🌿若き女王と旅の賢者 — 初夏の対話
謁見の間に静寂が満ちる中、賢者はゆっくりと顔を上げ、女王イリスに語りかけました。
「陛下、あなたの瞳には理想の光が宿っております。しかし、その光は、燃えすぎれば己を焼き尽くす炎ともなりましょう。」
イリスは驚きながらも、その言葉に耳を傾けました。賢者の声は穏やかで、まるで風が森を撫でるようでした。
「私は、遥か東の山岳地帯より参りました。そこには、心を癒す薬草と、夢を映す泉があります。陛下が望まれるなら、そこへご案内いたしましょう。」
女王はしばし沈黙し、やがて静かに頷きました。
🏞️旅の始まり — 王宮を離れて
数日後、女王は側近の反対を押し切り、身分を隠して賢者とともに旅に出ました。馬車ではなく、徒歩で森を抜け、丘を越え、夜は星空の下で眠る日々。
その道中、イリスは初めて「王ではない自分」と向き合います。民の暮らし、自然の息吹、そして賢者との語らいが、彼女の心に新たな視点をもたらしました。
🌌夢の泉 — 内なる声との対話
旅の終わり、二人は「夢の泉」と呼ばれる場所に辿り着きます。泉の水面に映るのは、過去でも未来でもない、女王自身の「本当の願い」。
そこに映ったのは、民とともに笑う自分、子どもたちに物語を語る自分、そして、王冠を外した素顔の自分でした。
賢者は静かに言いました。
「王である前に、あなたは一人の人間です。そのことを忘れぬ限り、王国は決して迷いません。」
👑帰還 — 新たな統治の始まり
王宮に戻ったイリスは、以前とは違う眼差しを持って政務に臨みました。民の声に耳を傾け、交易の見直しを行い、農地の開拓には村人の知恵を取り入れました。
そして、王宮の庭には「夢の泉」を模した小さな池が造られ、そこに訪れる者は、静かに自分自身と向き合うことができるようになったのです。

“秘密の菜園” スイスチャード
“秘密の菜園”は、王宮の最も奥まった場所にありました。
高い石壁に囲まれ、外からはその存在さえ分からない小さな庭。そこは朝日がやわらかく差し込み、昼には心地よい風が吹き抜け、夜には月明かりが銀色の光を落とす、まるで時間がゆっくり流れるような不思議な空間でした。
女王イリスは、政務の合間を縫っては菜園に足を運び、自らの手で種をまきました。指先で土をほぐし、ひと粒ひと粒をそっと埋め、両手で土をかぶせる。その仕草は、まるで新たな命を抱きしめるように丁寧でした。水をやるときも、決して慌てず、川から汲んだ清らかな水を、葉や茎を傷つけぬよう慎重に注ぎました。
やがて、芽吹きの季節が訪れました。
小さな双葉が顔を出し、朝露をまといながら光を受ける姿は、宝石のようにきらめいていました。日を追うごとに葉は大きく、茎は色濃く育ち、やがて――奇跡のような光景が広がったのです。
その茎は一本ごとに異なる色を帯びていました。黄金のような黄色、炎のような赤、淡いピンク、深い紫、そして透き通るような白。まるで虹を地上に閉じ込めたかのような色彩が、菜園一面に広がったのです。風が吹くたびに茎はやわらかく揺れ、光が反射して七色の輝きが庭全体を包み込みました。
初めて収穫の日――女王はまだ朝靄の残る時間に菜園を訪れました。
指で茎をそっと撫でると、葉はさらさらと音を立て、まるで感謝を告げるかのように揺れました。
摘み取った葉は瑞々しく、手にするとほんのりと甘い香りが漂いました。
城の厨房でゆっくりと調理されたその葉は、噛むほどに滋味深く、舌だけでなく全身に染み渡るような温かさをもたらしました。
不思議なことに、その日を境に女王の身体には静かな変化が訪れました。
朝目覚めたときの軽やかさ、肌の奥からにじみ出るような艶、瞳の中に宿る深い輝き――それらは日に日に増していきました。長時間の政務にも疲れを見せず、微笑むと、その笑顔に触れた者の心まで明るくなるようでした。
やがて、王国の民は気づきました。
「女王は、以前にも増して美しく、力強くなられた…」
しかし、その理由を知る者はほとんどいませんでした。王宮の奥の“虹の葉”と、それを毎日丁寧に育てる女王の姿を見た者は、数えるほどしかいなかったのです。
夢の泉と女王の葉
若かりし頃に旅に出た女王イリスは、王宮に帰ってから、ただ国を治めるためだけではありませんでした。女王は、ひとりひとりがこの国に生きる喜びを感じられるようにと願っていたのです。
王宮の庭には「夢の泉」を模した小さな池がありました。
夢の泉とは、静かにその水面を覗き込むことで、自分の心の奥深くと向き合えるという不思議な泉のこと。池の水は山から引いた清流で満たされ、周囲には白い石と香り高いハーブが植えられ、風が吹くたびにほのかな香りが漂いました。
王宮に招かれた民や旅人は、その泉の前に座り、静かに自分自身と向き合いました。
未来への願いを胸に抱く者もいれば、過ぎた日々を振り返る者もいました。
泉は何も語らず、ただそのすべてを受け入れていました。
女王イリスもまた、この泉の前に立つことがありました。
水面を覗くと、そこには外見だけではなく、心の奥の自分自身が映し出されるように感じられました。
ある日、泉のほとりで水をすくい上げたイリスは、その水の冷たさと澄み切った味わいに、ふとあることを思いつきました。
――この水で、あの“虹の葉”を育ててみてはどうだろう。
こうして、王宮の奥の“秘密の菜園”へ泉から水が引かれました。
朝、泉の水面に映る淡い光が石壁を越えて菜園に差し込み、虹色の茎と深い緑の葉がきらめきました。泉の水は葉に命を与えるように染み渡り、日ごとに葉は力強く、色鮮やかに育ちました。
収穫の日、泉の水で育ったスイスチャードは、これまで以上に瑞々しく輝いていました。
口にすると、やわらかな甘みとほんのりとした塩味が舌に広がり、体の奥から温かく澄んだ力が満ちていきました。まるで泉が持つ静けさと優しさが、そのまま葉に宿ったようでした。
やがて、泉の水で育った“女王の葉”は、王宮の特別な宴で民にも振る舞われました。
それを食べた者は、不思議と心が落ち着き、視界が澄み渡るような感覚を覚えたといいます。
民は口々に、「この葉には、女王の慈しみと泉の静けさが宿っている」と讃えました。
夢の泉と秘密の菜園――その二つは、王国にとって宝となり、
人々はこう語り継ぐようになったのです。
「心を映す泉の水は、美しさと力を育む葉を生み出す。
その葉は、女王の心そのものだ」と。
野菜の女王
それから幾つもの季節が巡りました。
春には谷が花で満ち、夏には川のせせらぎが涼を運び、秋には黄金色の畑が風に揺れ、冬には雪が静かに大地を覆いました。
そのすべての季節を、女王イリスは変わらぬ気品と輝きで過ごしていました。年齢を重ねても、その姿は少しも衰えず、むしろ深みと温かみを増していったのです。
城下町では、女王を見かけた者が必ずこう語りました。
「お姿は、まるで自然そのものの美しさを映したようだった」
市場で働く娘たちは、女王の歩く姿を目に焼き付け、若者たちはその微笑みに胸を高鳴らせました。老いた者たちは静かに頷き、「あの方こそ、この国の光だ」と口をそろえました。
やがて、人々は彼女を「野菜の女王」と呼ぶようになりました。
その美と健康の秘密が、王宮の奥に育つ虹色の葉――スイスチャードにあると噂されるようになったのです。けれども、真実を知る者はほとんどいませんでした。菜園は今も高い石壁の奥に隠され、外の世界からは決して見えなかったのです。
そして時は流れ、王国も、女王の治世も、やがて歴史の一頁へと姿を消しました。
しかし、その物語は消えることなく、語り継がれました。
母から子へ、そして孫へ――「女王は、虹色の葉で内側から美しさを育てた」と。
それはもはや単なる美の秘訣ではなく、心と体を慈しみ、自然の恵みと共に生きるための哲学として、伝説のように残ったのです。
そして今――
私たちは、その“女王の葉”を現代に蘇らせました。
肥沃な土と澄んだ水、太陽の巡りの中で育ったスイスチャード。その虹色の茎と深い緑の葉には、昔と変わらぬ力が宿っています。あなたの食卓に、この伝説の葉をお届けします。
美しさも、健康も、外から飾るのではなく、内から育てる。
それこそが、時を超えて女王が教えてくれた、美の哲学なのです。
