緑の女王 ―リウィアとスイスチャードの物語―

第五章 芽吹きは国境を越えて

冬の終わり、パラティヌスの丘の薬草園には、昨年の葉を刈り取った株から再び若い芽が立ち上がっていた。
ローマの空気には、まだ冷たさと湿り気が残っていたが、庭師たちは既に春の準備を始めていた。

リウィアは、寒風の中で作業する園丁の背中を見ながら、手にした地図を広げた。そこには、帝国各地の港町や軍営が細かく記されている。
スイスチャードはラティウムだけでなく、カンパニア、エトルリア、さらにガリア・ナルボネンシスへと広がりつつあった。

「この葉は海を渡る」と、彼女は書簡に記す。
交易船の積み荷に加えられた乾燥葉や酢漬けは、腐敗しやすい青物の欠点を補い、遠征地でも重宝された。
沿岸の補給所では、兵士だけでなく港の労働者や旅人も、この葉を求めるようになっていた。


第六章 権力の影

しかし、広がりすぎた評判は、新たな火種を生んだ。
ローマの大穀物商人組合は、スイスチャードが「パンの付け合わせ以上の役割を持ち始めた」ことに不安を抱く。
野菜の需要が安定しすぎれば、パンや穀物の供給を握る彼らの交渉力が弱まる。

ある夜、評議会の裏廊下で、穀物商の一人がリウィアに近づき、低い声で言った。
「女王陛下、野菜は民衆を喜ばせますが、パンこそが彼らを繋ぎ止める鎖なのです」
その言葉は、忠告というよりも牽制に近かった。

リウィアは冷静に応じた。
「民を繋ぎ止める鎖は不要です。必要なのは、彼らが倒れぬための支えです」
しかし、権力の裏で交わされる密約や買収は、彼女の知らぬところで着々と進んでいた。


第七章 遠征の報

数年後、ゲルマニア遠征の報告がローマに届く。
雪深い前線で、兵士たちはスイスチャードの塩漬けと干し葉で冬を越した。
報告書には「寒冷地での壊血病、発熱、下痢の症例が著しく減少」と記されていた。

遠征隊の将軍は、リウィアに銀杯を贈り、こう記した。
「剣と盾だけでは兵は生き延びぬ。
 あなたがローマに与えた葉は、我らの見えぬ鎧となった」

その報は、市場や港でも広まり、再びスイスチャードの価値は高まった。
しかし同時に、権力闘争の場では「女王の葉」が政治的象徴として利用され始めていた。


第八章 静かなる石垣、ふたたび

晩春、リウィアは薬草園の奥で一人、畝の間を歩いていた。
背後から足音が近づく。振り向くと、若い医師が報告書を手にしていた。
それは各地の施粥所や軍営、そして市場から集めた詳細な栄養調査だった。

医師は言った。
「この葉を取り入れた地域は、病人の回復が早く、労働力の維持率も高いのです。
 しかし一部の地域では、政治的圧力で栽培が制限されています」

リウィアは頷き、地図の上に静かに指を置いた。
「ならば、私たちはもう一度、すすめの文を書こう。
 命を守るための葉は、命の声で広がらねばならない」

その年の秋、再び帝国内に手紙が送られた。
命令ではない。ただの「すすめ」――けれどそれは、石垣の石を一つずつ積み上げるような静かな力を持っていた。

パラティヌスの丘から見下ろすローマの町並みは、夕陽に染まり、遠くの庭や畑の緑が光っていた。
リウィアはそっと呟いた。
「国家は、剣ではなく、この静かな石垣によって守られるのです」

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